この取材をはじめて調べてみるまで恥ずかしながら
ご近所に創業100年近いこんなにすごい会社が
あったとはまったく知りませんでした。
積み重ねでしか成し得ない職人仕事の尊さ
京都の「山口硝子製作所」と聞いて、ピンとくるのはガラス製分析計測機器を必要とする仕事に何らかの形で従事している人たちだろう。
会社は新丸太町通に面してはいるが目立つ看板もなく、入口扉に社名を小さく掲げるだけなので、地元の人もうっかり見過ごす。
創業は1925年(大正14)。初代の山口伊三郎さんは森下仁丹の瓶を手掛ける東京の職人として働き、腕を見込まれたのか、京都の分析計測機器の会社に請われて京都に移住、独立を果たしている。
その後、2代、3代と継承してきたが、近年は時代の波にもまれ、苦しい状況に立たされることもあった。
4代目として、現在、副代表を務める山口信乃介さんが大学を卒業する頃が、ちょうどその時期にあたった。信乃介さんは家業を父に任せ、自身は大手企業に就職を決めた。むろん周囲は誰も反対せず、むしろ背中を押してくれた。
ところが、勤めた会社が非鉄金属製錬や機能性材料を製造していたことから、日々高度な職人仕事を目にするようになり、当時、営業職だった信乃介さんは、物づくりの現場へ行く度、その仕事ぶりに心奪われるようになった。
「職人さんたちは、傍からは何も違って見えないような、1ミリ単位のことにもこだわって仕事をしている。その違いがあらゆる産業の根幹を支えている事実に圧倒されました。素材系の製造業が世の中に果たす役割は大きい。積み重ねでしか辿り着けない深み、強みを、心から尊敬しました」。
尊敬の念はいつしか自らの進路にも影響をきたし、ならば自分もそういう仕事に携わろうという思いが膨んだ。
一度芽生えた気持ちに蓋をすることは容易ではない。
信乃介さんは就職から4年後の春、家業に戻った。
大手企業の評価軸を町工場にもたらし意識改革
工場は事務所に隣接する路地を進んだ奥にある。社員は8名。仕上げ工程を手伝う実母以外はすべて職人だ。中には齢80を超える熟練者もいる。
幅や大きさの異なるガラス管を仕入れて部分加工を施し、分析計測機器に使用される理化学用ガラス器具をつくるのが、主な業務だ。
ひとつのガラス管の中に、らせん状の管をすっぽり収めるなど、技術の高さは素人目にもわかる。技術をモノにするには、10年はかかると信乃介さんは語る。
いわゆる昔ながらの日本の物づくりの現場に、信乃介さんは大手企業では今や当たり前になった、評価軸を導入した。
職人それぞれの仕事の状況を示す作業指数や、製品のクオリティを示す品質基準をすべて数値化し、共有したのだ。
大手企業を経験して戻ってきた跡取りが着手した改革は、職人たちにいい意味の緊張と少しの戸惑いをもたらした。
けれども、品質(Q)、価格(C)、納期(D)、顧客対応(S)を無視していては、今後生き残れないという判断は、何一つ間違っていない。
期末評価という名の耳慣れない言葉で仕事が評価され、報酬へとつながる流れは、小さな町工場のアットホームな社風を継続する確かな取り組みのひとつとして定着した。
強みを再確認して自社製ガラス茶筒を開発
日々の仕事は基本的には企業相手だが、最近は一般消費者向けの自社製品も手がけるようになった。
本体とピッタリ合う蓋がゆっくりと滑り落ちるガラス茶筒は、どこにもない自信作だ。
胴体の口の部分はすりガラス状に加工し、ガラスバーナー加工と研磨加工の両方を担う「山口硝子製作所」でしか生産できない商品といえる。
大きさは大小2タイプ。用途はさまざまだが、京都の有名なバーでも使われている。
信乃介さんは「自社製品をこれからも増やしていきたい」と展望を語る。商品開発は容易ではないが、若い世代が新しい風を運んでいる今の仁王門の雰囲気も、前向きな気持ちにさせる。
長い時間をかけて磨いた技術は逃げないどころか、アクセサリーや装飾品など、これまでとは違う分野でもいかされる。「マーケットを掘り起こしていきたい」。その言葉が力強い。
廃業の影を払拭し、手仕事の現場に生産性という冷静な視座をもたらしたことは、業績にも反映されている。
静かな改革の風を、外の世界の人間が感じ取ることはなかなか出来ないが、見方を変えればそれはある意味京都らしい。なぜなら、一見、普通に見える住宅の中で腕のいい職人が仕事に励み、誰にも真似できない美術工芸品を生み出すあり方が、ある意味この町のスタンダードだったのだから。
(構成・文・写真/古都真由美)
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