「子供のころには稚児行列などでお祭にも参加しました。
これまではごく当たり前にある地元の神社と受け止めていましたが
最近はちょっと話題になっているみたいです」。
豊臣秀吉を勝利に導き満足させたご祭神が鎮座
かつて京都の人々の足となって活躍した路面電車は、明治末期から大正初期にかけて敷設されている。
市の東側を結ぶ東山線は、東大路通を拡幅して軌道を確保。東大路通に面する「満足稲荷神社」は、その時境内の西を削って北へ敷地を拡大。そこへ新たに本殿を建立している。
社史によると創建は約400年前にさかのぼる。
満足という名は豊臣秀吉の心状を表したもので、秀吉は文禄の役の戦勝を稲荷神に祈願し、見事勝利をおさめたことから伏見城に稲荷神を祀るようになったという。
自らの野心を満たした霊験に、戦国の世の英傑は大いに奮い立ったのだろうか。その御社の名を満足稲荷神社とした。
それから100年ほど経った1693年(元禄6)に、徳川綱吉が城内から現在地へ移築。
天照大御神、大国主大神、猿田彦大神の3柱を祀り、縁起に由来する勝負事の勝利や、商売繁盛、五穀豊穣のご利益がうたわれている。
縁起のいい御神木や御神力がささやかれる磐座
「境内はそう広くありませんが、本殿、舞殿、拝殿、絵馬堂と、大きな神社と同じような伽藍が揃っています」と語るのは宮司の柴田晃さんだ。
境内でもっとも古いものは、かつての本殿があったあたりに向かい合うように立つ狐の狛犬。
「創建当時のものではないか」と柴田宮司は推測している。
2匹の狐はコン吉、ツネ松と名付けられ、コン吉にいたっては片方の耳が崩れ落ち、足にはさらしを巻くという満身創痍で御社を守り続けている。
【2023 .11.15 追記】
その後コン吉とツネ松の修復のため御朱印が配布されて寄付が集まり、令和元年11月に新しいコン吉とツネ松がお披露目となり、現在も磐座(いわくら)を守っています。
狛狐の向こうには神が鎮座する磐座(いわくら)が祀られている。この岩を撫でた手で頭をさすると頭がよくなり、痛みがあるところをさすると痛みがとれるという民間信仰がいつしか浸透し、今では「岩神さん」の愛称で親しまれている。
その向こうにそびえ立つ御神木のもちの木の樹齢は、創建年代と重なるおよそ400年だ。
幹の途中から8本の枝が垂直に伸びる珍しい樹形を、樹木医や学識経験者らは高く評価し、平成17年に京都市の保存樹に指定されている。
八という末広がりの枝数は、商売繁盛を願う人々にとっていかにも縁起がいい。
400年の年月を生き抜いた逞しさもまた崇敬を集めている。
新たな授与品の中にはきつねを象った愛らしいおみくじも
前宮司の引退にともなって、急きょ宮司職を継いだ柴田さんは、由緒あるこの御社の存在意義を改めて感じ、ひとりでも多くの人に知ってもらいたいと強く思うようになったという。
幸い、地下鉄東西線東山駅からわずか400m程の利便性と、近くの岡崎エリアで度々イベントが開催される影響で、若い世代の参拝もあり、近年は人気の御朱印目当てに訪れる人も少なくない。
それに応え御朱印帳を新調。中面には縁起のいい御神木を描き、モダンなカバーは境内に掲げる幟の生地でつくられている。
授与品の数も増やし、きつね形のおみくじも最近並び始めた。このおみくじ、よく見るとひとつずつ顔が違っている。
現在の吉凶を知らせる神使、どれを選び取るか、ここは思案どころだ。
ほかに、柴田宮司の父親が子供のころにつけていたきつね面を、宮司自らの手で復元したきつね面も。
面に使うすべての材料をお祓いし、請われてからひとつずつ製作するため、完成までに2週間ほど時間を要する。
また柴田宮司は、隔年5月に開催される神幸祭の継承にも力を注いでいる。
最盛時には大きな御輿に乗ったご祭神が町を巡幸し、多くの露店で賑わった。
今でこそ規模は縮小したものの、以前は地域住民が総出で奉仕する一大神事。御社に伝わる古い記録写真が、往時の隆盛と仁王門の歩みを静かに物語っている。
(構成・文/古都真由美 写真/満足稲荷神社 古都真由美)
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