弊社は来年創業100周年を迎えます。
そこで、ここ数年創業にまつわる資料などを整理したり、探したり、ネットで調べたりしているのですが、その過程で、からふね屋という名前と関連して「堀尾緋紗子」という女性の名前が浮かび上がってきました。
堀尾緋紗子というのは今でいうペンネームで、本名は堀尾寿子といい、早くに亡くなった私の祖母の妹、大叔母にあたる人です。
そもそも祖父で弊社初代社長の幸太郎も私が生まれる前に他界しており、この大叔母の寿子も20代前半の若さで亡くなっています。
さらに祖母も私が中学のときには亡くなっていますので、今となっては寿子の生きていた時代のことはほとんどわからないのですが、かろうじて「文学少女」だったというような言い伝えだけは残されていました。
ところが、ネットでいろいろ調べていると、『日本古書通信』平成24年8月号に西原和海という方が「夢野久作と堀尾緋紗子」という文章を寄せていることがわかりました。
さっそくこの『日本古書通信』平成24年8月号を取り寄せて読んでみたところ、西原氏はもともと夢野久作を研究されていて、夢野の日記の中から堀尾緋紗子の名を見つけ、そこから当時唐舟屋(のちに からふね屋)印刷所で印刷、夢野も寄稿していた『猟奇』という探偵雑誌や、さらには堀尾緋紗子が発行人でからふね屋印刷所が印刷した文芸雑誌『加羅不禰(からふね)』を発見して、夢野久作と堀尾緋紗子とのつながり、そしてからふね屋印刷所社長の堀尾幸太郎と緋紗子が兄妹(実際には義兄妹)であることまでたどり着かれました。
また、西原氏は緋紗子の文才にも言及されており、
緋紗子は短歌を専門としていたが、小説、詩、随筆など多くのジャンルに筆を染めていて、その意味では多才であった。筆名も多用していたらしく、『猟奇』に久作に倣って「猟奇歌」を発表している「三條公子」も緋紗子その人なのである。「赤い花」(おそらくプロレタリア文学の雑誌)では「永井洋子」という名を使っていた。
関わった雑誌も少なくなかった「放射線」「声陣」「爪紅」「ブロノウタ」「新興短歌」などといった雑誌に作品を発表していたという。感心するのは『加羅不禰』を主宰するかたわら、29年11月には「生活をうたふ」という雑誌(プロレタリア短歌か)を創刊し、さらには「新潮」という刊行物(からふね屋印刷所の月報)の編集にまで力を注いでいた。
<中略>
緋紗子の詩や散文にはモダニズムへの志向も顕著である。「猟奇」との関わりも、その一環だと見なすことができよう。モダニズムからプロレタリア文学へ揺れていくその姿勢は、時代の潮流に対する彼女のアンテナの鋭敏さを明かしている。遺された作品の中には、取り立てて彼女の文学的達成を云々する程のものは見当たらないが、なお彼女が長命であったなら、或いは一つの個性を成熟させていたかもしれない。引用:『日本古書通信』平成24年8月号 西原和海「夢野久作と堀尾緋紗子」
と、評価していただいています。
そういえばと思い出したのが、随分昔に大正・昭和初期の探偵・ミステリー文芸を調べている研究者の方が、『猟奇』の奥付を頼りに弊社を尋ねられたことがあり、結局弊社にはそのころの資料がなにも残っておらずお役に立てなかったのですが、その時にいただいた資料のコピーが残っていたはずと探してみたら、『猟奇』Vol.1 No.7の表紙と目次のページのコピーでした。
そこには確かに夢野久作の名も出ていました。
この『猟奇』という雑誌は1928年から約5年にわたり発行されていたようですが、弊社が印刷を担当していたのは緋紗子が他界する前後の約2年だけで、あとは大阪のほうで印刷されたようです。
ちなみに『猟奇』は京都の株式会社三人社という出版社で復刻されています。
また西原氏によると夢野久作は緋紗子の依頼に応じて『加羅不禰』にも短歌や詩を寄せていたそうです。
弊社としても、できれば『猟奇』や『加羅不禰』、さらにはもし残っているなら「新潮」というからふね屋印刷所の月報のオリジナルを一度は手にしてみたいものです。もしなにか情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらお問合せフォームからご連絡ください。
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- 『日本古書通信』平成24年8月号 西原和海「夢野久作と堀尾緋紗子」